デキビジ「勝間和代 VS ひろゆき」の議論が不毛な理由(建設的な議論をするために必要なこと)

デキビジ 勝間和代 VS ひろゆき を文字におこしてみる - さかなの目」を読みました。テレビは見ていません。時間取られるのがめんどくさいんで。それはそうと、不毛だなぁと感じました。その理由を愚考してみました。

簡潔に言うと3点あります。

  1. 「問題」が共有出来ていない
  2. 「問題 vs 私達」の構図になっていない
  3. 「自分を変える勇気」をお互い持っていない

それそれ詳しく書いていきたいと思います。

1 「問題」が共有出来ていない

ひろゆきさんは独自の考え方を持っておりそこが魅力であり面白いのですが、議論の相手としては難しい相手だと思います。いろいろな媒体で意見を伺うことがありますが、ほとんどの場合、「問題」自体をひっくり返すことが多いと思います。なので、「問題」を共有する前に、もう一つ上のメタなレベルの「この問題は問題か?」を議論する必要があります。勝間さんは、頑張ってメタ議論をしていこうとしているように見えましたが、本質を語らず具体例で語ってしまったのが失敗だと思います。その後、その具体例に反論が積み重なっていくという、不毛な議論になっていったと見受けられます。

2 「問題 vs 私達」の構図になっていない

これは、番組の作りの問題であって、勝間さん・ひろゆきさんには何も非がありません。番組としては、今回のようにちぐはぐな議論でも、視聴者が面白がってくれて視聴率が取れれば問題ないという考えでしょう。しかし、「議論」という面から言うと、特に建設的な解決方法を導くためには、「問題 vs 私達」というのはものすごく重要です。
「問題 vs 私達」というのは、プログラム開発の特にファシリテーション方面で大事にされている考え方です。「人 vs 人」だと、勝ち負けの世界になるわけですが、「勝負」は何も解決しません。「問題」に対応するのは「勝負」ではなく「解決方法」です。「人 vs 人」はやめましょう。どちらかの意見を否定するだけならまだ問題はないですが、人格否定にまでつながりかねません。

3 「自分を変える勇気」をお互い持っていない

これは推測になります。勝間さんが自分の論点に固執するところ、ひろゆきさんが論点ずらしを行うことからの推測です。
またプログラム開発方面の話題で恐縮なのですが、角谷信太郎さんが『JavaからRubyへ ―マネージャのための実践移行ガイド』の訳者あとがきの中で「相手に変化を強要することはできないということです。人が変化させられるのは自分自身だけです。」と述べています。議論においても、これはその通りだと思います。いくら相手が論理的に正しくても、それを受け入れない人というのを見たことありませんか? この態度は議論の場に出る資格を持たないと私は考えます。建設的な議論とは、問題に対して、自分の意見を出し、相手の意見を聞き、解決方法を導くこと、だと私は考えます。大事なのは2でも述べたように解決方法であるので、「自分の意見」はただの踏み台であると思います。「自分の意見」は死んでも、「自分」は死にません。哲学者カール・ポパー「私は間違っているかもしれない。あなたが正しいのかもしれない。しかし協力すればわれわれは、真理により近づくことができるだろう」と言いました。議論の場に立つには、このような、場合によっては自らの意見を否定する勇気、「自分を変える勇気」を持つ必要があるのではないでしょうか?

建設的な議論に必要なことはその他いろいろあると思いますが、今回の件では、以上3点が特に気になったので挙げさせてもらいました。長々とした拙文にお付き合い頂きありがとうございました。自戒を込めて。